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占術理論総合サイト

占術研究家    
   梶原煌平  

ひふみ神示  Hifumishinji No.14~17

ひふみ神示 第14巻〜第17巻

※太字が原文 細字が解説

ひふみ神示 第14巻 風の巻

日本の国に食物なくなってしまふぞ。
世界中に食べ物なくなってしまふぞ。
何も人民の心からぞ。
食物無くなっても食物あるぞ、神の臣民、人民 心配ないぞ、とも食ひならんのざぞ。心得よ。


まだ深刻というほどではありませんが確実に食べ物、無くなってきてますよね。



日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。

聞こえてきます。尖閣問題以来、中国の若者達の中には露骨に言うものもいます。



月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。
この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ。実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。
五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。
出来ねばお出直しぞ。


世界一度に見せるか。いわゆる「暗黒の三日間」ですね。太陽フレアまたは2012年ペテルギウスの超新星爆発ではないかと言われています。



新しき世とは神なき世なりけり。
人、神となる世にてありけり。
世界中 人に任せて神々は楽隠居なり、あら楽し世ぞ。
この世の頭(かしら)いたして居る者から、改心致さねば、下の苦労いたすが長うなるぞ、此処までわけて申しても、実地に見せてもまだわからんのか。


政治家の先生からお願いします。



ひふみ神示 第15巻 岩の巻

神にも見(み)のあやまり、聞きのあやまりあるのざぞ。
元の神には無いなれど、下々の神にはあるのざぞ。
それで見なほし、聞きなほしと申してあるのざぞ。
元の神には見直し聞きなほしはないのざぞ


下々の神とは我々のご先祖様の中で人格者だった方々が死後、輪廻を卒業して上層界へ行かれたのでしょう。つまり、ちょっと前まで人間だった訳ですから間違いもあるでしょう。



釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。

私が以前、スピリチュアルのページに書いたことと同じことが書かれています。釈迦やイエスがどんなに正しくても、後の信者による誤解、曲解で今日の宗教は誤謬だらけということですね。



人民 苦しみさえすればよい様に早合点してゐるなれど、それは大間違ひざぞ。
神の道 無理ないと、くどう申してあらうがな。
此の道理よく噛み分けて下されよ。


わざわざ自ら苦しむ必要はないと。自分の余裕分で無理なく他者を助ければ良いのです。妙な苦行など無意味です。



此の方のコト、腹にひしひしと響き出したら、よき守護神となったのざぞ。

この巻は合点のいく話しが多いです。



今度 捕へられる人民 沢山にあるが、今度こそはひどいのざぞ。
牢獄で自殺するものも出来て来るぞ。
女、子供の辛いことになるぞ。


以前ユーチューブにチベットの惨状を描いた漫画がアップされていました。あの状況になるなら自殺する人もいると思います。神示を読む限り、何度想像してもロシアより中国の方がイメージに合致します。もし、本当に戦争になったら即刻女子はオーストラリアかニュージーランド辺りへ逃げなければ、残っていたら100%レイプされるでしょう。我先に逃げるのは良くないというようなことも書いてありましたが、現実問題として逃がしてやるべきだと思いますが・・。



一人となりても、神の申す事ならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人は沢山には要らんのざぞ。
信者引張ってくれるなよ。
道は伝へて下されと申してあらうがな。


無理矢理、信者を増やす必要はないと。伝えるだけ伝えて、後は個々の判断に委ねよということでしょう。



早う元にかへして改心いたされよ、神国(かみくに)の王は天地の王ざぞ、外国(とつくに)の王は人の王ざぞ。
人の王では長う続かんのぢゃ。
外国にはまだまだ、きびしいことバタバタに出て来るぞ、日本にもどんどん出て来るぞ。


万世一系、2000年以上続く皇室など、他に類例がありません。さらに女系天皇論が出た時、悠仁親王が生まれました。これを偶然の範疇だと考えられる人は、私とは一生話しが合わないでしょう。



ひふみ神示 第16巻 荒の巻

※この巻、全一帖(長文)にして難解。申し訳ありません。



ひふみ神示 第17巻 地震の巻

この巻は全部重要。霊界の仕組み、解説。なぜか口調が「である」調になっている。


霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。

基本です。



神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。


白黒写真の理屈ですね。光だけなら真っ白、影だけなら真っ黒。



悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。

悪が無ければ善を認識できなくなりますから。



その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。
歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。故に、柔らかくして連続的であり、太陽の (ひかり)と ●(熱)とに譬えることができる。
また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。
故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。
そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる。
また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。
また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。
そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっている。
しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の≠なすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのである。
霊界に於ける音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。
それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である。
またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。
即ち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。
言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。


音の世界にも何やら法則があるようです。



霊人の中には、自分達の住む霊界の他に、別の世界が限りなく存在することを知らず、また、その世界に住む霊人を知らず、また物質世界と地上人を知らない場合もある。
それは丁度、地上人の多くが、生前及び死後の世界を信じないのと同様である。


あの世にも大槻教授や2ちゃんねるの否定論者のような人々がいて「物質界?地上人?そんなもんあるわけ無いだろ。おたく大丈夫か?ええ病院紹介したろか?」とか何とか言っているということですね。



地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、各々の世界をつくり出している如く、霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。
下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界に於ては必ずしもそうではない。
美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。
と同時に、+(真善) (真善美愛) (歓喜) (大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり、悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。
故に、下級霊人との交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面に於ては、極めて尊いものとなるのである。
下級霊人自身が (善)なりと信じて行為することが、地上人には (悪)と現われることが多いのである。
何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、他の世界を知らないからである。
それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである。所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである。
地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。
奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。
かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。
浄化し、改心し得ないものである。
また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。
脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。
総て戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。
半面、向上の如くに見ゆる面があるとも、半面に於て同様の退歩が必然的に起ってくる。
それは強(シ)いるが為である。神の歓喜には、強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。
戒律あるところ必ず影生じ、闇を生み出し、カスが残るものである。
それは、大神の内流によって弥栄する世界ではなく、影の世界である。
中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。
霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。
直線的なものは、月の霊人が用い、曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。
但し、高度の霊人となれば文字はない。
ただ文字の元をなす 、・と ○ と +があるのみ。
また高度の霊界人の文字として、殆ど数字のみが使用されている場合もある。
数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。しかし これは不変のものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。

高度な霊人の文字が数字であることはスウェーデンボルグの証言と合致しており、日月神示の信憑性の一つとなっています。



霊界には、時間がない。
故に、霊人は時間ということを知らない。
其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。
即ち、時間はないが状態の変化はある。
故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。この永遠と、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。
永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである。
故に、霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切をはなれて、状態とその変化による霊的なものによって語るのである。
しかし、この霊人の語る所を地上人がうけ入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。
また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解しうるのである。
多くの地上人は、霊人を知らない。
霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない。
但し、死後の霊人は、相当に長い間 地上世界のことを記憶しているものである。
地上人が、何故 霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。
例えば霊人とは、地上人の心に通じ、或いは、心そのものであると考えるためである。
つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである。
所が実際は、霊人そのものが手をもつが故に地上人に手があり、指をもっているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。
しかも、霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。
霊人は、地上人にまして一段と光明の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している。
霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。
それは、地上に於ける場合と同じである。
太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる。
また、霊界には物質世界の如く空間はない。
このことを地上人は中々に理解しないのである。
霊界に於ける場所の変化は、その内分の変化に他ならない。
霊界に距離はない。
空間もない。
只、あるものはその状態の変化のみである。
故に、離れるとか、分れるとか云うことは、内分が遠くはなれていて、同一線上にないことを物語る。
物質的約束に於ける同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。
故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである。


何かわかるような、わからないような話です。



霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。
故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。
住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。
霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。
と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。
また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。
その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。
そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。
霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。
地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない。
これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。
また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。
高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。
彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。
理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。
但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。
この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。
しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。
霊人はまた、いろいろな食物を食している。
云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。
食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。
地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。
そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。
霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。
これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。
食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。
以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である。
また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。
現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。
何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。
霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。
そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。
そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。
すべての善は ・より起り、・ にかえるのと同様、総ての悪もまた ・より起り ・にかえる。
故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。
殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。
この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。
この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。
悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。
所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。
地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。
地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。
その平衡するところに力を生じ、生命する。
しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの・が与えられると見えるものである。
これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となる。
また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。
そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。
故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰とはなれてはあり得ないのである。
神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。
法則とは歓喜の法則である。
神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。
これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。
神は、左手にて の動きをなし、右手にて の動きを為す。
そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。
地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。
この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。
その平衡が、神の御旨である。
平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。
左手は右手によりて生き動き、栄える。
左手なき右手はなく、右手なき左手はない。
善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。
神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。
新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。
始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。


悪の度合いが強い世界を相対的に地獄と表現しているだけでいわゆる「血の池地獄」のような地獄は人間の想像に過ぎないと。つまり存在しないということ。しかし、人間が想像するような地獄はなくても、地獄に該当するレベルの低い世界はあるわけでしょうから、堕ちないようにしましょう。



以下16、17、18、19帖 全部大切ですのでよく読んでおいて下さい。

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